下の「迅速測図」をご覧ください。明治初期の地図によれば、阿佐ヶ谷の「けやき屋敷」には「杉」(の旧字体)の樹林地があったことが分かります。
杉並の地名はもともと江戸初期に領地替えで飯能からやってきた岡部氏が領地の境(現在の青梅街道沿いに当たります)に植えた杉並木から来ていると言われています。
岡部氏がいた飯能市は入間川の上流から運ばれてくる木材の一大集積地として栄えたところでした。飯能に集まる木材は「西川材」といって杉やヒノキのブランド名になっていました。阿佐ヶ谷~中野界隈に製材業や工務店が多いのはその名残と言えましょう。
関東の屋敷林は、①杉の単純林を主体とした屋敷背後林、②欅(けやき)等を構成樹種とした大木と祠、③蔵周辺の「火よけ」と呼ばれる面状中低木の3つで構成されていました。
明治初期の迅速測図に記載されている「杉」はその屋敷背後林だったと言えましょう。
当時、幕府は杉の植林・植樹を各藩に奨励し、武家屋敷の屋敷林や寺社境内に積極的に植えられるようになりました。岡部氏が阿佐ヶ谷に来たことで植杉が寺社境内はもちろん名主や豪族の敷地内にも広まることになりました。その意味で屋敷の杉樹林は歴史的に由緒あるしるしであると言えます 。
虎口のように折れ曲がる鎌倉古道
けやき屋敷の西に走っている道は鎌倉古道です。南の成田東の方から現在のパールセンターを通って、現在の阿佐ヶ谷駅あたりの桃園川の支流を渡ると間もなくL字に折れて神明宮に向かっています。これは城の虎口に似ています。おそらく南から川を渡ってきた敵がまっすぐに進めず、神明宮や世尊院の前を横まきにしながら進まざるを得ないつくりになっているのでしょう。このあたりがいかに軍事的要衝だったかが窺がわれるとともに、けやき屋敷の御当主であられる相沢家も幕府からの信頼が厚かったことを彷彿とさせます。
このけやき屋敷の西側、L字に折れた個所個所が現在の杉並第一小学校、東側の桃園川のあたりが現在の河北病院になります。
